2025/12/15 05:13 up
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おはようござりまする。
熟歴男殿、お楽しみくだされ〜
Part 13
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赤壁の戦い
『赤壁の戦いーー嘘嘘実々の駆け引きの全貌』
「三国志」最大の決戦「赤壁の戦い」はどうして始まり、どのようにして終わっのか。
その虚と実は?
協力な圧倒的多数の曹操軍と孫権・劉備連合の対決をめぐる話題の数々を両軍双方の見地から検証してみましょう。
【其の三】
『襄陽を脱出した劉備の決断』
曹操が荊州に攻め込んだのは建安13年(208)7月ですが、
まだ襄陽にまで到達しない翌8月、荊州の牧・劉表が突然病死しました。
『三国志演義』によると、劉表は次第に病状が悪化し、劉備を呼んで後事を託したことになっていますが、
史実は不明で『三国志』の本文には、
ただ「曹操の到着前に病死した」と記されているだけである。
あるいは、劉表は事態の緊迫で心労のあまり心臓麻痺でも起こしたのかもしれません。
かねてから長男の劉琦(りゅうき)は江夏郡の太守として外へ出されており、家を牛耳る重臣たちのあと押しで、弟の劉そう が跡を継いで荊州の牧となった。
父の病が篤いことを聞いた劉琦は急いで駆けつけだが、劉琦一派は死期を悟った劉表の気が変わって劉琦を跡継ぎにするなどと言いだすことを恐れ、
城門を閉じたまま面会もさせず、劉琦は泣く泣く立ち去ったという一幕もあった。
劉琦は侵入してくる曹操に急使を送り、降伏を申し出た。
このとき、劉備は襄陽のすぐ対岸にある樊(はん)城(いまは合併して襄樊市)に駐屯していたが、
降伏申し出のことは まったく知らされず、曹操軍が100キロほど離れた宛(えん)県(南陽)まで迫ったとき、ようやく それと気付いたのだった。
劉備はあわてて撤退をはかったが・・・・・
次回に続きます。
ダラダラと長文で、
す。す。すまぬ。
しかし、ダラダラと続きまする。
痴熟歴女
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